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  • 執筆者の写真茶の湯の郷 自由な茶人コミュニティ

今月のことのは「心の師とはなれ、心を師とせざれ」

更新日:2021年6月28日


こんにちは。佐藤明日美です。


すっかり秋も深まってきましたが、いかがお過ごしでしょうか?

秋の夕暮れは、夕日や雲、光によって織り成される空の様子が美しいですね。

短い間に、刻々と表情を変えていく様は、

時間が許すならいつまでも見ていたくなるほど、美しいと感じます。


今月のことのはは、侘茶の祖といわれる村田珠光が、引用した古人のことば。


『心の師とはなれ、心を師とせざれ』


これは、村田珠光が高弟の古市播磨守に送った『心の文』の一節にあたります。

この『心の文』の中で、茶の湯の道では、自慢(慢心)と我執の心が道の妨げになることに触れています。


私が、この言葉を聞くと、思い出すお稽古の瞬間があります。

その日、私はとても身体が怠く、うまく力が入らずに、

お稽古自体が、どこかフワフワしていました。


師匠からは、「今日は(中身が)どこかに行ってしまっているわね」と言われ、

なんとも身の入らない時間となってしまっていました。

かといって、どうしても何かが定まらない。

師匠にも、点てられるお茶にも申し訳ない気持ちが湧いてきます。


その時でした。

はたと、「私がお茶を点てるのだ」という意識でいたことに気づきました。 裏を返せば、私が怠くて、定まらないなら、お茶は点てられない。

うまくお点前ができない。それはしょうがないことだ。


そう、私の心が勝手に結果まで決めていたのです。


お稽古のために、清められた茶室。

真剣に向き合ってくださる師匠。

沸かされた湯、水指に張られた水。

お茶碗、茶杓、茶筅、柄杓。お軸に、お花。

お茶を点てるために、全身全霊をもって

役割を果たそうとしてくれている一つ一つの存在に対して、

私は、これでもかと言い訳をつけて、

勝手に、その時のベストを尽くそうともしていない。


なんて恥ずかしいんだろう。

その瞬間に、道具とともに、お茶を点てられる自分で在ればいいと思いました。

そのために、身体を使い、動かそう。


その瞬間、身体に軸が定まりました。

怠くて、疲れてはいましたが、茶道具の動きたいように

自然に力が伝わるように、動けるようになりました。


そうして、点てられたお茶を師匠が美味しく召し上がってくださいました。


『心の師とはなれ、心の師とせざれ。』


私にとっては、この体験があってのこの言葉でした。


厳しいように聴こえますが、それはきっと、厳しいことではないのだと思います。

辛いときは辛くてもいい。動けない時は動けなくてもいい。

正直にあっていい。自然であれ。

いつでも、自分の心に湧いているものを自覚して、生きること。

そして、心に湧いたことをもとに、勝手に結果を決めないこと。

自分が一人で生きている存在だと奢らないこと。

多くの誰かや何かに、いつでも助け、支えられていることに気づくこと。


村田珠光さんの伝えたかったことと重なっているのかはわかりませんが、

私にとっては、自分の「我」を自覚した大切な体験と繋がる言葉となりました。


そして、我が師として、自分の心に寄り添いながらも、

その時々の瞬間を大切にできる方法を探せるような

優しくて頼もしい存在が自分の中にあることを知りました。


そして、そんな体験をさせてくれる茶の湯の道をまた一層好きになりました。







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